「右にも左にも、あるのは過剰な言葉だけだ」

高村薫『晴子情歌』(上・下、新潮社、2002年)を読んだのは 1 年半前だった。

戦中の軍国主義も戦後の炭鉱の労働運動も 60年安保も全共闘も、「あるのは過剰な言葉だけだ」というセリフが印象に残った。下巻 p.278、松田という登場人物の言葉。

下巻の最後の言葉、「俺はひとりだ。母もひとりだ。—お母さん。」これは下巻の帯にも書いてある。男が「お母さん」と呼びかけるのは本来恥ずかしいことであって、男は人からマザコンと言われるのを極度に嫌がるものだ。それでも「お母さん」と呼びかけずにはいられない思い。

でもいまどきの若い人はそういう感覚を持ってないかもしれない。いまどきの若い男でなくても、僕のいとこが会社をクビになって、その後再就職先が見つかり叔父に保証人になってもらう時に「母と相談してから」就職するかどうか決める、と話したと聞いた時は驚いた。三十過ぎた男が自分の仕事を母親と相談しないと決められないとは、完全にマザコンだと思うが恥ずかしいと思わないのだろうか。

それはともかく、母から息子への膨大な手紙はすべて正字正かな。大正生まれで女学校にも通っていたというその文章能力には圧倒される。戦後教育世代のうちの母親にも見習ってほしい、というきっかけで読み始めたのだが、さすがにこの正字正かなは苦労するだろうから読まないかな。常用漢字しか使ってない新聞でも時々読めない漢字があるようだし。たまに母親から来るメールの文章があまりに稚拙なもので。

その『晴子情歌』の続編が出たようだ。

『新リア王』(上・下、新潮社)

10年後ということは、1985年から始まるわけか。これを読む前にシェイクスピアの「リア王」も読まねばならぬのか。

シェイクスピア『リア王』
斎藤勇訳、岩波文庫・赤 205-1
福田恆存訳、新潮文庫
松岡和子訳、ちくま文庫・シェイクスピア全集 5

清水義範『清水義範の作文教室』(早川書房、1995年、ハヤカワ文庫 JA618、1999年)がとっくに文庫化されていたとは知らなかった。『はじめてわかる国語』(講談社、2002年 12月)で『文章読本さん江』(筑摩書房、2002年 2月)に言及して著者の斎藤美奈子と対談した清水義範がその後『大人のための文章教室』(講談社、2004年、講談社現代新書 1738)だなんて、ギャグかと思ったが真面目のようだ。まさかこの本全体がパスティーシュ(文体模倣)じゃないよな。むしろ『わが子に教える作文教室』(講談社、2005年、講談社現代新書 1810)の方が本領発揮だと思う。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中